キャラクター薬剤師になりたい【応用編】

薬の歴史と売り方

医療のあけぼの

5世紀ごろから、半島(新羅・百済)や大陸(隋・唐)から文化が伝わり、医学の知識も入ってきました。8世紀には医療制度が生まれましたが、一般庶民は、その恩恵を受けていません。一方、お寺では薬を作ったり、僧が医者として活躍していました。

僧医の活躍により、生活が苦しくなった官医は一般庶民の診療も手掛けるようになり、町医者、いわゆる開業医が出現することになりました。

医療のあけぼの

薬をつくる

薬を飲むときは、薬草を煎じる方法が一般的でしたが、江戸時代になると丸薬が作られるようになりました。 粉にした生薬はそのままでは丸薬にならず、何種類かの生薬の粉をはちみつや寒梅粉(かんばいこ) に混ぜ込んでよく練り上げ、小さく切って丸めました。

丸薬は真珠のように丸く整え、煎じ薬は、切り刻んだ生薬をやかんに入れて火にかけ、煮詰めました。時代劇の映画やドラマでも良く見かけるシーンですね。

錦絵広告江戸出店の図

蘭学のおこり

鎖国した江戸時代は、開国までの約200年間、西洋文化は長崎出島のオランダ商館からしか入って来ませんでした。安永3年(1774)には、杉田玄白・前野良沢らは、大変な努力をして解剖学の本「解体新書」を翻訳しました。この出来事は当時の社会に少なからぬ影響を与えました。

蘭方医学は、中国医学一辺倒だったわが国の医学に新しい風を吹きこんだと言えます。

蘭学のおこり

近代薬学の夜明け

明治6年(1873)第一大学区医学校(現東京大学)に製薬学科が創られ、外国人教師を雇い近代薬学の教育が始まりました。やがて各地にも薬学校が設立されていきました。

薬(医薬品)の規格が標準化されたのは明治20年(1887)、薬学の近代化は急速に進められました。でも、当時の薬(医薬品)の多くは輸入品で、日本の製薬事業が本格化するのは第一次大戦後の昭和時代に入ってからです。

近代薬学の夜明け

薬の売り方と宣伝(I)

社寺や藩など、売薬が各地で作られる中、江戸の中期ごろには京や大阪・江戸の大都市や門前町に薬屋が大きな店舗を作り、立派な看板を掲げ盛んに、薬を販売していました。

また、年に一度、薬屋さんが各家庭を訪れ、薬を置き、翌年使っただけの代金を受け取る配置売薬では、富山売薬をはじめ、大和売薬(奈良)・近江売薬(滋賀)・田代売薬(佐賀)などが盛んでした。

配置売薬は江戸中期から急速に全国に普及し、人々に親しまれました。全国で起こった薬の製造・販売の「売薬」は、近代の製薬業の発展につながっていきました。

明治以降近代化が進むにつれ、製薬会社が薬を造るようになり、売薬商人が薬に携わることが少なくなりました。

その後、広く一般庶民に薬が販売されるようになり、デザインが施された目立つ店舗名や看板のほか、薬の効能を宣伝する新聞や雑誌への広告も盛んに行われました。
※「医療のあけぼの」より「薬の売り方と宣伝(I)」の記事は「内藤記念くすり博物館」より転載・作成 

売薬版画

薬の売り方と宣伝(II)

四国内でも町並みで有名な愛媛県内子町の「商いと暮らし博物館」では明治大正頃の薬屋の店舗が再現されており、大きな看板や棚に並ぶ薬、店員などの様子を見ることができます。商家の暮らしぶりがいきいきと観察できます。
●商いと暮らし博物館
住所:愛媛県喜多郡内子町内子1938
電話:0893-44-5220
営業:9時〜16時30分 定休:年末年始
料金:大人200円 小・中学生100円 ※セット料金あり 駐車:なし 町並駐車場(有料)

また、愛媛県出身で、大正末から昭和初期に活躍した画家高畠華宵は「中将湯」(津村順天堂)という婦人薬の広告を大正期を中心に手掛けており、新聞や雑誌に何百点という広告絵を描いています。
●高畠華宵大正ロマン館
住所:愛媛県東温市下林丙654-1
電話:089-964-7077
備考:開館日時・展示内容・入場料等は「高畠華宵大正ロマン館」まで事前にご確認ください。

商いと暮らし博物館
高畠華宵大正ロマン館